人間の二面性

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人間の二面性

実際になると、自主的に自由意志でそんなことは出来ないと思う。
よほどの強い意志でもない限り。
あるいは、よほどの外圧、外からの強制力でもない限り。

いくら美学を貫きたいと思っても、認知症にかかってしまえば、貫けない。
ただ、問題は、白黒はっきりした、だれが見ても深刻な認知症ならわかりやすいが、
アタマがばっちり冴えている時と、そうでない時にわかれる、ジキルとハイドの認知症、
いわゆる「まだら」になった場合。

自分で無意識、無自覚に行っている行為があり、その行為をモノの移動や、事象の検証で確認できた場合、
あるいは、他人に「あなた、これこれ、こんなことしてましたよ」と知らされた場合、
我に戻ったハイドは、認知症のジキルの行動を知って、愕然となる。
まさに認知症のまだら状態は、人間の二面性といってよいのではないだろうか。
自分の知らない自分を知ったら愕然とすることだろう。

徘徊老人は、まさにそれ。
真っ裸になって道の溝にしゃがんで、すっぽり入っている老人 、
「お~い、追い炊きしてくれ~」と、本人はお風呂に入っているつもり。

夕方になると徘徊するおばあさんは、本人は夕食の支度にかかっているのだ。
部屋中をかき乱している老人も、仕事をしているつもり。

わたしなら、おそらく、テーブルに平たいものを持ち出し、指をかちゃかちゃ動かして、ブログをアップしているつもりの老人になりそうだ。
大人しい、手の掛からない老人ならよいのだが。

現実とアタマの中を行ったり来たり。
その区別がだんだん出来なくなる。
あれ? 今でもその傾向のあるわたしは、歳をとっても、認知症状が発覚しにくいことだろう。

ゴミ屋敷と化した、お気に入りの自分の家で、
「今日は、娘一家が来るので、掃除しないといけない・・・」なんて、かちゃかちゃ、平たいものの上に、指だけ動かしているのだろうか岩鹽
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